私は1936年生まれです。
私の家は八尾の南の端、南に大和川、北には八尾飛行場があり、戦争当時は軍事基地で兵隊さんがたくさんおられました。
その頃は、戦争も一番激しい時で大和川の堤防上空より村をめがけて戦闘機が機銃掃射をしてきました。
防空壕から出ると弾がたくさん落ちていたものです。軍医さんが宿を借りておられた友達のお宅では、奥様が赤ちゃんをお腹に入れたまま、飛行機の機銃掃射に撃たれて亡くなるという悲しいこともありました。
家の壁にも弾の穴が残っていたそうです。村の真ん中にも爆弾が落とされました。私も小さいながら、今日、命があっても明日のことはまったく分かりませんでした。
その頃になると基地から特攻隊といって戦闘機に乗って
17〜8才の若い青年達が敵地に飛び立って行かれました。
父の話によると製粉工場の横に小川が流れて田園風景が広がっておりましたが、その小川で少年2人が魚を釣っていて
「おっちゃん、明日になれば特攻に行くんや。今日最後の釣りや」
と言っていたそうです。
それを聞いたときは胸が詰まって涙がこぼれました。
多くの人達が特攻隊で命を落とされました。
当時のことを思うと今はあまりにも物が栄えて本来の心を見失っている様に思います。
今は、命を賭けて戦争に行って下さった兵隊さんに心からありがとうと合掌したいと思います。
(一部分諸略しました)
これは、私が利用している「生協」の冊子に掲載されていたものです。
この方は現在77歳。当時7歳。少女の作者の気持ちをかんがえるとホントにたまらないです。(T_T)
私が戦争が恐ろしいと感じて夜も眠れなかったのはちょうどこの作者と同じ小学1年生でした。
「ネコは生きている」という戦争をテーマにした人形劇映画を見てビックリしたと同時期に、初めて訪れた通天閣で「戦争記念展」と言う写真展を見て、やけこげた子供や手足が吹き飛んだ人達を見て、それはそれは毎晩なかなか寝付けない日々をすごしました。
今回、堺教室のTDSっこが「日本って平和よな〜」って言った一言が、よしえ先生を沖縄へ旅立たせ、私は
「えらいこっちゃ」。。。
と思っています。
それはホンマに、な〜んもないとこから私が「やってみるかー!」と立ち上げ、色んな人が出たり入ったり集まってくれて、こんな風に人が人によって動かされるグループになっている事。
それは計り知れない、嬉しさ。
そして
しっかりかじ取りしやな。と思う、怖さ。
今回、2部のテーマを日本と決まり、「日本ってなんだっけ?」と改めて見つめなおす機会を頂いた私達講師。
日本の美しさ・しきたり・気持ち・作法・文化・風習・・・
イントラ全員、あーだこーだ最後まで悩みながら作りました。
日本ってなんだ?
「日本はどんな国?」って海外の方に聞かれたとき、スラスラ〜っ♪と答えられるようになったらかっこいい。
私たちがいつまでもいい場所に生まれたと思えるように過ごしたいです。
戦争はなくなれ。
戦争という言葉もなくなれー!